あゆみ(1965-1984)

出発点時代の流れの中で経験交流、研究、教育の機会 本会の発足身分法をめぐって実践の立脚点への問いかけ点数化保安処分問題各種研修会の企画


1965-1984

…この癲狂村落すなわち「コロニー」とは、どういうものであるかというに癲狂院のすぐ傍ら又は多少離れたところに、広い露地があって、そこへ信用のできるこれならばよいという患者を癲狂院から選んで通れていって、職業をさせる。珠に多く農業をさせるのであって、とにかく農業でなくとも、そういうようなところを造るのを「コロニー」というのである。故に患者は、病室を離れて、外に居て四方に少しも国いのないところで、仕事をするのである。「コロニー」で患者にさまざまの仕事をさせるのを、監獄でさまざまの仕事をさせるのと同じように思う人があって、病人が労苦を感じて、それをいやがりはせぬか、病人を労働に使っては、体のために悪くはないかなどと考えるが、これは全く杞憂であって、実際にはそんなことはない。もちろん病人には誰にでも仕事をさせるというわけでなく、病症と病状とで、選り別るのである。

呉秀三「癲狂村の話」 家庭衛生叢書 11-12 1906-7


出発点

精神障害者を精神的にも物理的にもがんじがらめに縛りつけていた時代、呪術や恐怖がこの人々をおおっていた時代、ピネル(Philippe Pinel 1745-1826)による開放の実践(1798.5.24)は、今日の私たちの携わる仕事の出発点であり、また、立ちかえるところであると言えます。解放とともに、徐々に、人間としての営み、感情、意欲や願望、関心…それらが自ずから、あるいは、導かれつつうごめいてきて、身のまわりのこと、生活行動、手仕事、あそび、まわりの人たちのことなど、いろいろなエピソードが生まれてくる。無拘束法とも称されたこのピネルの実践は、フランス・ドイツ等に於てやがて「コロニー」を生むこととなりました。
1906年から1907年(明39-40)にかけ、松沢病院の前身てある巣鴨病院長呉秀三教授(1866-1932)は、この「コロニー」を我国に紹介しています。ここでは、「作業治療法」とその思いきった展開について、渡欧時(明30)に著者の心をとらえたそのままが記述されており、やがて我国で最初の作業療法の実施(巣鴨病院(明34))をみることとなり、明治39年には“作業手”“作業係看護人”が配置されています。


時代の流れの中で

さて第二次大戦の戦中から戦後にかけて、軍国・敗戦という世の流れの中で、精神病院とその作業療法は低迷し、あるいは体制に奉仕し、あるいは生命ながらえるための食糧増産にと、さまざまな曲折を体験してきました。この混乱期がおさまりかけた頃、向精神薬の登場と共に、薬物療法による精神医療の開拓がはじまり、作業療法の役割も再検討されるようになりました。
その一つは、「生活療法」概念の登場による体系化・組織化ならびに治療的社会としての病院のあり方の探求、その中における作業療法の意味と役割についてであり、その二は、薬物療法の効果の検証の場としての、また、作業療法と看護活動、病院における治療活動の統合(治療チーム観〉の必要性についてであり、その三は、外勤・生活訓練(アパート等での自立のための)の活発化など、かつてないほど多くの病院で、さまざまな担い手と工夫の中で、作業療法が操り広げられてきました。


経験交流、研究、教育の機会

1957年に発会した病院精神医学懇話会(日本病院地域精神医学会の前身)は、精神病院に勤務する医療関係職種の集う場でした。生活療法・作業療法・社会復帰という言葉がそこでは沢山交わされていました。日本精神科看護協会(日本精神科看護技術協会の前身)は、作業療法や社会復帰活動の日常実践に深くかかわっている看護者も多く、看護と深くかかわりあう領域として、精神科看護のあり方と平行して、作業療法をめぐる研究や討議がしばしばなされていました。
こうした動向の中で、作業療法担当者の資質の向上を図るため、院内教育プログラムを始めた病院がみられるようになり(例:烏山病院〉、資格認定の必要性や診療報酬請求の実現にむけての発言や調査も次第に目につくようになってきました。
これらへの当時の行政などの対応を、加藤伸勝先生は本会第2回大会にて以下のように語っておられます。


…昭和29年から30年にかけて、当時松沢病院の作業医長であった臺弘先生が、それより以前に作業医長の職にあった石川準子先生と共に、都庁・厚生省に作業療法専従者の身分の保証、身分制度の確立に関する建議書を出された。しかし正式の回答はゼロであった。この頃身障者(児)に対する職能療法、機能訓練の確立の運動が非常に盛上がり、昭和35年から37年にかけて、厚生白書は心身障害者リハビリテーション推進策の必要性を強調、昭和38年医療制度調査会発足、国立リハビリテーション学院の創設をみた。が、この創設にあたっては、厚生省内所管課の違いから、日本精神神経学会は全く関与することがなかった。結果として、精神科は全く疎外された形であり、理学療法士養成を中心に考える形で、作業療法は付随的なものとして、学院の創設準備がすすめられた。昭和38年6月、PTOT身分制度打ち合わせ会発足。委員15人の中に、精神科医は一人も入っていなかった。私はそれを新聞で知って、これは大変なことだ、せっかくPTOTが出来るというのに精神科医が一人も加わっていないとはと、非常に疑問に思い、早速、私の病院の江副院長に相談した。江副院長もこの記事を見てガク然とされ、ただちに日本精神神経学会理事長秋元波留夫先生に連絡をされた。秋元理事長は、厚生省医務局に間合わせをして下さったわけであるが、その答が「精神科でも作業療法というものがあるのですか。それでは上司と相談の上で」ということであったそうである。

本会第2回大会加藤伸勝先生特別講演よリ(1966:掲載誌;前出)

本会の発足

昭和39年〈1964)、病院精神医学懇談話会場にて有志により本会の基礎となった「生活療法専任者の集い」開催の呼びかけが行われました。その時代背景には、これまで記したような流れがありました。作業療法に携わるものが、病院の枠をこえて初めて顔合わせをすることができた意義と喜びは大きなものでした。昭和40年1月30日(1965)、この集いは「精神科オキュペイショナルセラピイ協会」の設立総会をもちました(昭和43年現会名に改称)。
この設立総会は、都立松沢病院のピネルの人間解放の大きな図の掲げられている会議室で、あたかもピネルに見守られるようにして、作業療法の指導的、先駆的立場にあった多くの医師からの励ましを得て開かれ、心に残る集いでした。


…さて、ライシャワー事件以後、精神障害者対策が一つの歴史的な時点にさしかかっている時、私達の携わるオキュペイショナルセラピイの歴史に於ても、「作業」から「作業療法」ヘの質的脱皮、即ち理論と方法の確立や、又、本療法の点数化、従事者の資質や資格の問題等の解決を迫られているという一大転換期を迎えているわけであります。このような昨今の状況の中で、オキュペイショナルセラピイ従事者としての自覚をもって、明日の本療法をより治療的意義のあるものとし、又、精神障害者の社会復帰に貢献致すべく努力して参りたい。

成田文照氏(1983没)設立総会会長挨拶(1965)から


…日本の姿に則したOT活動の展開と、これまで長い間、我国の貧しいリハビリテーション施策の中で、これを支えてきた多くの実践者を忘れぬよう。

菅修先生の本会設立総会でのご挨拶(1965)から

身分法をめぐって

本会は設立直後、会の運営の基盤も定まらぬ中、PTOT法国会上程の渦中に投込まれました。度重なる国会請願は、遅きに失していたのみならず、日本の風土の中での実践の否定(あるいは無視)に立った、一気に先進国に追いつこうとする、文明開化や世直しに似た使命感の前に、かろうじて付帯決議を付加させ得たにすぎませんでした。
OT養成校は、第一線の従事者の再教育という視点を全くもっていませんでした。わずか240時間の受験貧絡資格取得講習で、3年間学習を積んだ人と対等に試験にのぞみ合否が判定されるハンディに加えて、精神科の領域の人々にとっては、神経一筋系障害、生理学や解剖学等の学習負担は大きいものでした。さらに、本会調査(1968)に於て明らかになったことは、この受験資格取得講習会の受講資格を有しない実践者が多数存在していたことでした。その理由の一つは、講習会そのものが開かれていないためであり、これについては、日本精神衛生会の協力を得て、本会として各地で開催出来るよう多くの努力を払い、行政府への要望を再々行いました。また他の理由として、学歴基準、経験年数基準により、門戸を開ざされてしまった人々のあることでした。本会としては、学習の機会としての講習受講(聴講)の実現までは取り組みましたが、そこから先へは厚い法の壁を破ることはできませんでした。
今日、身分法のもつ問題性は、実践の場の中に止どめおかれています。新しい作業療法と古い作業康法という言葉さえ巷間に平然と使われています。職場の中で、新しい作業療法の部門と古い作業療法の部門が別々に存在させられているところも少なくありません。
共通の目標を持ち、心を一つにして対象者の課題に対処してゆくという実践の基盤を今ほど必要としている時はありません。これからの本会のあゆみの大切な視点であると言えましょう。


実践の立脚点への問いかけ

次に本会の直面した課題は、“作業療法の名のもとに患者を管理し抑圧し搾取している”と、幾多の事例を通しての問題提起が、医師、患者、市民(マスコミ)からなされてきたことです。ちょうど作業療法点数化の動きが具体化しはじめた頃です。
この指摘は、率直に言って、作業療法実践者一人一人にその実践を振り返る機会を与えたことになりますが、よかれと信じ、また病院全体から、医師から求められ認められて取り組んできた実践そのものが、その土台がぐらついてくるということへの不安と焦燥を感じた実践者は少なくありませんでした。
人間としての解放(ピネル)の中にはじめて位置づき意味をもった作業療法が、私たちの手にかかると人間性の抑圧、人権の無視の権化となってしまうとは一体どういうことなのか。
私たちは日常の実践を支えつつ、一人一人の事例および白らの実践の点検をとうして考えようとしてきました。
本会設立間もない頃より、本会では会員からの共通の関心事として、作業療法による収益の取扱いについて、院内業務を利用した作業療法について、また下請け作業の是非等々、年次大会に於て多くの報告や討論が反復されてきていました。会としての方針の策定には至りませんでしたが、会員間の率直な論議をとうしてそれぞれが持ち場に持ちかえり実践の点検をすすめる具体的な手掛かりを得る機会となって欲しいとの願いでこうした課題への取り組みが行われてきました。
こうしたことと平行して、地域の中で障害をもつ人々とともに生きる場を作りつつある例(やどかりの里、あさやけ作業所、英国における対策等)および新しい精神医療の場の創造に着手している例(三枚橋病院、南信病院等)関連領域での展開例(治療教育、デイケア、保健所等)をはじめ、医療従事者としての基本的な心構え等々についての学習の機会を設けてきました。同時に各地で作業療法を指導し開拓して来られた医師の方々から、その考え方、理論、方法など、歴史的背景・治療構造・展望を合めお話をいただくことを重ねて参りました。
「薬づけ」「作業づけ」に代表される長期在院者、維持的OTのかかえる問題点は、どこにその新たな展開点を見出だせるか、等しく実践者の苦慮している事です。こうした学習と討論、実践の交流を経て、それぞれが自らの持場に戻って取り組み始めることの中に、実践者である私たちの答えが示されてきていると思います。
それでもなお、宇都宮病院事件(1983)が存在しています。私たちの会では、1984年、日本精神神経学会・日本精神科看護技術協会ほか2団体とともに、現地調査に踏み出しました。
ピネルにはじまりピネルヘ立ちかえるという精神から、作業療法実践上の指針を具体化してゆく時期にさしかかっているように思われます。


点数化

1974年、作業療法の点数化がこうした背景の中で施設基準の水準維持を前提に実現しました。しかし取扱い患者数や点数を中心に問題点は多く、また、作業療法士未配置病院では、経験豊富な実践者の存在があり、しかも質的に高い実践の展開があっても、これを請求できず、施設間格差がますます広がるという矛盾を生じつつあり、点数化についての本会の主張をとりまとめる必要が生じてきました。


保安処分問題

昭和49年(1974)の岡山大会で、保安処分新設案(刑法〉について会としての全体討論が行われました。法務大臣が刑法改正について法制審議会に諮問していた事への答申の中に、保安処分を実施する施設に、作業療法をはじめとする社会復帰活動を重要な治療活動として位置づけており、私たちとして深く関心を持たざるを得ない問題でした。保安処分の問題は、本質中に刑法理論、人権についての深い理解が必要になる面を含んでおり、今後さらに深める必要のある課題となっています。
とは言え、精神障害を持つ人々、入院履歴や通院経験をもつ人々にとって、このことか明文化されてゆくことは、大きな不安を与えており、解釈によっては、世論等を武器に歯止めのない長期拘束と監視の中に置かれないとも限らず、犯罪と精神病を短格化させる見方を世間に根付かせないとは言えません。保安施設内での作業療法がどう成立つのかの前に、まずこれらの問題点が私たちの日常実践そのものの中に影を落とすということから、昭和56年(1981)の大会で、保安処分に反対し精神医療の充実を求める大会決議が採択されました。保安処分に反対する精神医療従事者協議会に加盟し、他の5団体とともに歩みを共にした取り組みでした。


各種研修会の企画

会員からの要求に応じて、本会独自の研修プログラムをI昭和46年(1971)より企画実施してきました。
これは、それまでの年次大会分散会にて、レクリエーションプログラムの展開に苦慮しているとの声が大きく、そのニードに応えるため、レクリエーションの専任として実戦経験豊かな方々の協力を得、共に学びあう場としての位置付けで『レクリエーションワークショップ」が全面実施されることになりました。昭和 57年(1982)には、『作業療法研修会』もスタートしました。
発会当初55名の会員が、20年後の1984年には230名となり、昭和44年(1969)より2代目の会長を任められた野田昭朋氏も現役を退かれました。職場でも本会自体に於ても大きな曲り角にさしかかっていることを痛感するとともに、20年間のあゆみを振り返るこの機に、あらためて、これまで本会を見守って下さった多くの方々、この会を大切にして親しみをもって大会に研修会に参加された会員の方々ヘ感謝致します。