あゆみ(2014 設立50周年)

POTA50周年を迎え、今思うこと

浅海捷司 2014.10.11


この集いが半世紀にわたって存在したと思うと感慨深いものがあります。
創立時より2000年までの35年間の「あゆみ」は、会の機関誌に掲載されておりますのでご参照願えればと思います。その後私は会の役員を離れており、その後の「あゆみ」を語る立場にはありません。
ここでは創立に関わった一人として、今思うことを述べさせていただこうと思います。
昭和40年、都立松沢病院の精神病者解放図の掲げられた会議室で、生活療法実践者数十名で、この会の前身である「精神科オキュペイショナルセラピー協会」が立ち上がりました。
各地の精神病院長や作業担当医の方々から心強い支援があり、当日は米軍立川基地病院作業療法士のダベンポートさんもゲストにお招きしたのです。国会では理学療法士作業療法士法の審議が始まろうとしていました。
まさに秋元先生の言う「作業療法の黒船時代」を象徴するひとつの出来事でした。


かつてこの会で、松沢病院での作業治療に携わっておられた先輩の堀切氏が、精神医療の歴史展望を語ってくださいました。
それによれば、その昔、霊力のあるとされる場で、滝に打たれる、祈りを唱える、秘伝の漢方治療を受けるなどしながら滞在する病者とその家族に、宿を提供し世話をした村人と寺社の存在があったということでした。そうした場から後に精神病院が生まれており、東京高尾山薬王院の琵琶滝や蛇滝周辺にも、その痕跡をみることができます。
明治時代に来日したロシア人医師が、そのような場の一つ京都岩倉大雲寺を訪れた見聞記に、「精神病者を家族のように受け入れ暮らしを共にし「家庭看護」という言葉を生んだゲール村のミニ版」と書き残しています。
そこには、「周囲の人々の病者との自然なかかわり」ならびに「病者自身の自然に導かれた活動性」があったといえましょう。


西洋式精神病院は明治維新前後に生まれましたが、今日の松沢病院の前身である東京府立巣鴨病院は公立病院の魁の-つで、その2代目院長となった呉秀三は、西欧留学時に「ドイツ精神医学」をクレペリンに学び「イギリスの道徳療法」「フランスでのピネルの事績」を知り、ベルギーの「ゲール」を実際に訪ねています。
その見聞記を「癲狂村の話」として、帰国後雑誌に投稿しています。
そうした留学時の知見をベースに、病院の治療活動を含む療養環境の整備に取り組みました。
つまり、呉により、「人間の営みのもつ意味、営みをとおして関わる意義」と「病者の営みの保障」が、医療の枠組みにはじめて意図的に正面から取り上げられたのです。それは「作業治療」と呼ばれました。
森田正馬をはじめ草創期の精神科医は、帝大精神医学教室教授でもあった呉の指導の下に精神科臨床医としての教育を受けたので、各地の精神病院で作業治療の実践がみられるようになっていきました。
その「作業治療」が、昭和30年代クロールプロマジン登場の頃より、小林八郎医師らにより「治療社会」という理念をベースにした生活療法」の中で新たな位置づけを得るようになりました。
それは私が就職した頃であり、POTAの幕開けの時期でした。
この頃には、ダントンやシモンなどの「作業療法」テキストが、この領域を指導管理する医師により、読まれつつありました。しかし、私をはじめ、それぞれの「病院」の中だけにあった現場のスタッフは、そうした海外の動向以前に、まずはそれぞれの「井の中の蛙」状態から脱したいという思いの中にありました。


この国が東洋医学から西洋医学へ移ろう「医学の黒船時代」は、スペイン人やオランダ人の医術やポルトガルの宣教師が行う治療の存在を知った若い藩士などが、時には藩主から派遣されるなどして、長崎のオランダ人から直接に、あるいは大坂、江戸、佐倉などの蘭学塾に学ぶなどして、その人の輪と新しい医術が広まり深まっていきました。
例えば天然痘などの流行病や戦による刀や鉄砲による傷などへの有効な医術として、それまでの医術とは異なる客観的で確かな効果をもたらすものとして、西洋の医術は官民ともに求められるようになり、漢方医はその陰に押しやられるなど、それまでの医術の担い手と新たな担い手との間には対立の構図が生まれました。


大きな時代の転換点であり、そのための混乱も生じたという意味での「黒船時代」ということなら、POTA創立時も「作業療法の黒船時代」であったと言えましょう。
しかし、それまでの実践者およびその実践と、新たな「医療のパイオニア」およびその実践との関係が、あたかも「医術の黒船時代」の東洋医学と西洋医学のせめぎあいと同じようにくくられ論じられることに、私は違和感を抱いてきました。


この国には、例えば、「療育」「更生指導」「治療教育」などの概念で、教育機関、生活施設や傷痍軍人の社会復帰を図る施設などで、病者や障害者の症状と後遺障害の軽減、その自立と育ちを支援する場があって、残存機能や発達の契機の発見、心身機能の代替の可能性、暮らしと人々の関わり方の見直しなど、工夫と実践が積まれてきていました。
精神医療に限ってみても、松沢病院の歴史が語るように、「身体拘束からの解放」「行動制限からの解放」とともに「作業治療」「開放療法」の実践の積み上げがありました。
この国の医療の中にあったものと、彼の国からもたらされたものはなにがどう違うのか、新しいとはどんなことなのか、淘汰さるべきことは何か。それらは、私の職業生活につきまといつづけた問いかけです。


OTという専門職の道を求めて、アメリカに渡った数人の帰国を知ったのは、この集いの準備をしていた頃でした。これらの人達は江戸時代蘭学を求めて長崎へ行った人達、その先駆的な人に相当するのでしょう。蘭学を学んだ人たちは、各地にその教えを伝える私塾を開き診療活動を行っていきましたが、一部の方を除いて、OTを学び帰国した人たちにはその時もなく慌ただしい第3の医学「リハビリテーション医学」のパイオニアとして、国の施策としてのパイオニアの養成の任務が課されるようになっていったのです。


最近、大正時代の松沢病院において、療養者と一緒に土木作業をし、「もっこ医者」ともいわれた加藤普佐次郎氏の作業治療に関する論文を読みかえしました。
今日の作業療法のとらえ方からすれば、時代を感じさせる点もありますが、しかし根底には「作業的存在」としての人間観が脈々と流れていると改めて思いました。
また後に生活療法は、反精神医学の嵐の中で、「治療管理的、集団管理的パターナリズム」「治療の名の下での病者の人権侵害、労働搾取」があると、厳しく弾劾されましたが、労働権に限っての指摘であったにしろ、実践上の警句を、すでに大正時代に、加藤は作業治療実践の中で発していたことも知りました。
加藤に見られる「作業的存在としての人間観」「人としての権利の保障」「人としての営みの環境整備とそれをとりもどす意義」は、第3の医学のめざすものは「復権」にあると述べた上田敏医師、近年作業療法に関して提唱されたキールホフナーの「人間作業モデル」やCOPMの土台になっているもの、そして当事者に寄り添い歩むリカバリーへの道と通じ合うものを、内包しているとの思いを新たにしています。
このことから、東洋医学と西洋医学との間の立脚点の違いのような根本的な違いが、これまでこの国の中にあった私たちの実践と、新たなものとして推奨されはじめた作業療法との間にあったようには思いません。
ただ、作業を人間存在の実存としてとらえてきたものに対して、治療のための手段であり道具であるととらえる立場との違いがありました。また、この頃紹介されたフィドラーらの力動精神医学の視点からの作業療法は、「作業分析論」に代表される「治療力を磨く」「科学的根拠を示す」というような側面とともに、実践現場にある者には目新しく、そうした視点での見直しを実践現場にもたらしました。
それは作業療法に限ったことではなく、ドイツ精神医学が主流だった当時の医師の教育と、フランスやアメリカで発展してきた力動精神医学とのせめぎあいとも理解することができるでしょう。


また、それまでのよく言えば総合的なものであったけれども、はじめに集団ありき、活動ありきと映った集団的でやや大づかみな実践の中にあったものと比べると、新たに巣立ってきた作業療法士は、個々の病態やニーズの力動的把握、個別的目標の明確化とその実践を希求するものでした。
そうしたちぐはぐさが作業指導員との間に溝を生み、気鋭のパイオニアの人達の中には、それまでの蓄積を古いものとして切り捨てそこから大切なポイントを見出すことを避けてきたようなまなざしが感じられました。一方、私のうちにもそうしたまなざしへの反発や実践へのこだわりがあって、結果的にそうしたあり方の回復に随分時間を要させてしまったと感じ、反省しています。
両者の視点とその実践は統合され、新たな展開へ向かうべきものであったと思います。
これまでの実践の延長線上において理解し、さらなる発展の契機をもたらすものととらえるべきではなかったかとの思いを強くしております。


そのような中、一人また一人と、基礎から作業療法を学び作業療法士として登場した人たちが、この会に加わってこられました。
馬場温子さんは、私が職場を離れた時、この会の私の役割りを受け取ってくださいました。そして、大橋さん水堀さんを初め、今日この会の運営にあたっておられる役員の皆さん、そして、今やほとんどすべての会員の方々が作業療法士です。
作業療法士登場以前にこの領域にあった者のそれまでの実践を、「古い作業療法」と語る人たちがある中、やはりつながっているんだなと私に感じさせてくれることであり、新たな学びと励ましをいただきました。感謝しています。
これからは、そのエネルギーに託していけると、心から嬉しく大変心強く思っております。


ところで、かつて医師、看護師をはじめ様々な医療スタッフとともにこの領域の実践とそのあり方を探ってきたのに、作業療法士誕生を契機に次第にその実践の場は専門職に委ねるという状況になってきています。
そうした中、専門職域間の相互の理解と連携、果実の共有の必要性、すなわち「チーム医療」の中でどのように実践が位置づいているかの点検の必要性があります。
今日、全国規模の学会や集いとして、それぞれの専門領域にある人々がともに実践を語り、必要な支援のあり方を探っていこうとする場が生まれておりますが、またこじんまりと地域に密着した福祉や行政の領域をも含めた多職種コミュニケーションの場もあり、一例として、つい最近知ったのですが、八王子に作業療法士などが核となった「サックル」という会があり、地域の在宅支援に関わる多職種の勉強と交流の場となっています。
また、専門職域でのこうした研鑚の場のほかに、家族や当事者自身の支え合い、仲間作り、暮らしの場作りなどの展開が、入院医療中心の時代とは比べ物にならないほど、感じられるこの頃です。


呉による「身体拘束からの解放」と同時に芽生えた「行動制限からの解放」、それらはやがて「開放療法」をもたらし、激しい反精神医療の嵐をとおして精神病者をしばっていたもう一つの「心と社会的制約からの解放、復権」の時代となってきました。
昭和60年代以降、数次にわたる精神保健法の見直しの中で、「障害者」としての理解が深まり、社会的にバリアフリー、そしてノーマライゼーションを希求するようになってきました。
今日という日の皆さんの立ち位置がここにあるわけです。


そうした支援の原点に立ち返って、作業療法という枠組みの中だけでなく、当事者を含むさまざまな人とつながり、関連するマンパワーとの連携、連帯、視点の共有を心がけ、実践課題をとらえかえし、新たな実践を導く努力を積み上げていってほしいと思います。


最後に、この会創立間もないころから、次々到来し対処をせまられた数々の事柄の中、くじけることなく、実践の場の点検をし、その火をともしつづけてきた仲間達一初代会長の成田さん、その後を務められた野田さん、徳江さんをはじめ、もう語り合うこともできない方々も多いのですが、この人たちあってのこの集いでした。
私が事務局や広報担当時代に、全国研修会開催に進んでお力添えいただき、機関誌作成のためにテープ起こしを担ってくださった各地の会員有志の方々をはじめ、会員の皆様からの励ましと御助力に、あらためて心から感謝を申しあげます。
どうか広い視野で、勇気をもって生き生きと仕事をつみあげられますよう心から願います。